耳切り事件−ゴッホファンならずとも知っている出来事であり、ゴッホを語る上で話題にのぼることがもっとも多い事件の一つである。左の「包帯をしてパイプをくわえた自画像」を知っている人は多いのではなかろうか?左の作品は耳切り事件後、アルルのアトリエで描かれたものである。
一般的に知られているのは、「画家ゴーギャンとの共同生活がうまくいかず自傷行為に至ったのではないか」ということである。それは概ね正しい。しかし、それはあくまで実際に起きた事実でありゴッホの気持ちの機微などにまったく触れられていない。ここでは「なぜゴーギャンとうまくいかなかったのか」「なぜ自傷行為に至ったのか」等、筆者なりに文献を研究して考察した。
ゴーギャンがアルルに来たのは1888年10月23日、耳切り事件は同年12月24日、約2ヶ月間ゴッホはゴーギャンと過ごした。ゴッホは当初テオに「2人はいっぱい仕事をして、生活が実に調子よくいっている」と書いた。それに対しゴーギャンは「ヴァンサン(ゴッホ)と私は意見が合わない。絵の技法に関しては特にそうだ」と書いた。事実ならまったく見解が異なっていることがわかる。ゴッホはテオに心配をかけまいとゴーギャンとの緊張を伏せたのか、本当にうまくいっていると思っていたのかは定かではないが、少なくとも2人が気持ちよく生活を送っていたわけではなさそうだ。ゴッホはゴーギャンとの共同生活で自分の思い描いた生活ではなく、ストレスを溜めていった可能性は大いにある。
事件の1週間ほど前ゴーギャンはかなりゴッホと白熱した議論を交わし、ゴーギャンはテオに『2人は一緒に住むことはできない。私たちに必要なのは心の平穏だ』と書いた。しかし数日前にアルル西の美術館に2人で行き、ゴーギャンはパリ行きを取りやめた。
そして当日の12月23日、ゴーギャンの回想録によると23日の夜『私が振り向くと、そこにヴァンサン(ゴッホ)がいた。ヴァンサンは私に言った。あなたは無口になった。だから僕も静かになるよ。と言って立ち去った。』という。ゴーギャンはホテルに宿泊し、翌24日に黄色い家に戻ると警察と人だかりができていた。また当時の新聞は夜の11時半に『ヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼婦に小さい箱を渡した。中を開けると血だらけの耳たぶの一部が入っており警察に通報した』という。
テオとパリで共同生活したときに、テオはかなりゴッホにてこずらされたようだ。テオは妹ヴィルにあて『兄には2人の違う人間がいるようだ。一方は芝らしい才能で、立派で繊細だ。もう一方は利己的で無情だ。それが交互にあらわれ一方が語っていたかと思うと、もう一方の人格が顔を出す。兄は他人に対してだけでなく、自分自身に対しても人生を難しくしている。』と書いた。ゴッホは自分でも『我々現代人の病気はメランコリック(憂鬱症)とペシミズム(悲観主義)だ』と言っている。さらにゴッホは指導したアントン・マウフェやベルギーの芸術学院、パリの画塾など自分の思うとおりでないとあっさりやめている。
このことからゴッホは理性がある内は冷静に物事を判断でき、洞察力・判断力にも優れるが、いったん感情が高ぶり理性を上回ると歯止めが利かなくなり、自分の行動や思考を抑制するのが難しい性格に思える。
ゴッホは『いろんな画家たちとの共同生活』に憧れていた。むしろ『黄色い家』は共同生活のために借りたといっても良い。自分の部屋は白木の家具や寝具で質素なイメージにし、ゴーギャンには胡桃材のエレガントなイメージに仕立て上げた。そして待ちに待ったゴーギャンの到着でゴッホの夢の共同生活がはじまった。しかしその夢がゴーギャンとの議論の末、ゴーギャンがいなくなることではかなく消えようとした。感情が高ぶり、恐怖感にさいなまれたゴッホは錯乱状態となり、勢いで耳たぶを剃刀で切り落とした(もしかしたら自殺を考えていたのかもしれない)。
しかし、死ぬどころか気を失うこともできず、錯乱したゴッホはふらふらと馴染みの娼婦にその耳たぶを持っていくという奇行に出てしまった。帰ったゴッホは深夜ということもあり疲労困憊のまま睡眠した。
もちろん、「本当の事実」は今や誰にもわからない。ただこれを機にゴッホは頻繁に発作が起きるようになった。
ゴッホ.jp管理人 Yoshiki.T
ゴッホの筆致に魅力され独学で研究。大阪でデザイン事務所を経営する傍ら、ゴッホが関連する企画展は日本中必ず観に行く。国内のゴッホ研究の第一人者大阪大学教授圀府寺 司教授を尊敬している。おすすめはひろしま美術館の「ドービニーの庭」